上田曜子・同志社大学経済学部教授
世界銀行の統計を眺めていて、ある発見をした。それは、タイの一人当たり所得(GNI:国民総所得、米ドル換算)が、中国に追い抜かれたということである。2010年のデータによると、タイは4,150ドル、片や中国は4,270ドル。わずかではあるが中国の一人当たり所得がタイよりも高くなった。2009年までは、タイの所得が中国を上回っていたので、米ドル換算の一人当たりGNIを指標にとれば、2010年をもって、中国はタイを追い越したことになる。ただし、購買力平価で換算した一人当たりGNI(2010年)は、タイが8,190ドルと7,640ドルの中国よりも高い。従って、タイ・バーツと人民元の現地での購買力を基準にする場合は、タイ人の方が中国人よりも依然として豊かな生活をしていることに変わりはない。
いずれにしても、中国の一人当たり所得は、驚く程早いスピードで上昇してきた。世界銀行のデータがそれを裏付けてくれる。世界銀行は一人当たりGNI(米ドル換算)を基準にして、世界の国々を4グループに分類している。所得水準の低いグループから、低所得経済、低位中所得経済、高位中所得経済、高所得経済という分類である。2010年に、タイと中国は共に低位中所得(1,006-3,975ドル)から高位中所得(3,976-12,275ドル)へ移行した。
古いデータをさかのぼってみると、タイは、1976年の時点ですでに中所得(現在の低位中所得に相当する)国として分類されている。中国の場合、1980年において、低所得のグループに分類されていることが確認できる。
従って、今から30数年前においては、タイは低位中所得まで経済成長を達成した国、片や中国は最も貧しい国のグループの一国と位置付けられていたのである。
しかしながら両国は、2010年に同時に、低位中所得を卒業し、高位中所得への仲間入りを果たした。つまり、両国がこの所得水準の階段を上るのに要した年数は大きく異なっている。データの制約はあるものの、タイは、少なくとも35年以上を費やして低位中所得から高位中所得へゆっくりと移行した。他方、1999年に低所得から低位中所得へ移行した中国は、2010年に高位中所得の仲間入りを果たしている。タイが35年以上かけて上った階段を、中国は、わずか11年で駆け上がったことになる。
短期間のうちに、急速に成長する「圧縮型」の経済成長は、果たして良いことだろうか。経済成長に伴って、それに見合った制度や組織を整備し形成することは持続的な成長のために必須の条件である。しかし、制度や組織は時として硬直的であり、その改革には長い年数を要する場合もある。経済成長に必要な改革の実施が遅れる場合、様々な問題が短期間のうちに「圧縮」されて生じる結果となる。その国が、「圧縮」されて噴出する混乱を克服できない場合、経済成長や経済発展そのものが頓挫する可能性も指摘できよう。
今日の中国において、現状に不満を持つ国民が多く、それが種々の抗議運動という形をとって頻発していることはよく知られている。The Wall Street Journalは、清華大学のある教授の研究を引用し、2010年の中国においては、18万件もの抗議運動、暴動、その他の集団行為が発生したと報道している。昨今の反日運動についても、国民の不満を解消する一つの手段として、中国政府が最初は「黙認」したという点も、よく知られるところである。
タイに目を転じると、2006年のクーデタでタックシンが追放されて6年が過ぎようとしている。タックシンが首相に就任した2001年を起点にとるならば、彼の登場によって既存の政治体制が揺れ動き始めて、すでに10年以上が経過したことになる。それにもかかわらず未だに、タイの政治が今後どのように展開するのか、予測するのが困難な状況が続いている。
しかし、ゆっくりとした歩みで経済成長の階段を上ってきたタイは、政治の改革にもじっくりと時間をかけて取り組むのがふさわしいのかもしれない。そう考えれば、この歯がゆいような政治の現状は、むしろタイの健全性を表していることになる。それを突き詰めると、タイの政治体制は、大きな振動があっても、それに耐えられるだけの強靭性をもちあわせているとも考えられるのである。
一人当たり所得が中国に追い越されたという、衝撃的な事実も余裕を持って受け止められるのが、タイの良いところである。経済統計の数字とは、実にいろいろなことを教えてくれるものである。
筆者プロフィール:上田曜子
同志社大学経済学部教授、経済学博士。1958年生まれ。京都大学大学院経済学研究科修了。現在はタイ資本の自動車部品製造業者に関する研究を行っている。